教科書でも習った黒田の悪党は忍者の祖?

今、テレビや映画や小説などで大活躍の忍者。

主に隣の行政区「伊賀市」がPRし伊賀忍者として紹介される事が多いですよね。

忍者はその昔「間者(かんじゃ)」とも呼ばれ、今の忍者のイメージのような忍法(にんぽう)や忍術を使って派手なアクションをするのではなく、主に諜報活動や撹乱など今でいうスパイの様な事するのがメインでした。

 力を持った領主も存在せず、また守護が入封しても認めず、小さな豪族が合議制で政を治めていました。

周りを見れば、西に奈良や大阪、北に京都や近江、東に伊勢や尾張と大国に囲まれていましたが、悪党と言われる所以はこうした大きな力の言いなりにならず、諜報や撹乱を用いてバランス外交をしてきたと言う事でしょうか?

 名張市小波田から出た観阿弥は当時「能楽」で一世を風靡しましたが、各地の大名の元を訪れ能を舞い、諜報活動も兼ねていたのかも知れません。

その想像を裏付けるのが観阿弥と楠木正成との関係です。

忍者と言われていた伊賀者は、戦さ場以外では、都会の河原などで芝居小屋や見世物小屋などをし、日銭を稼ぎながら情報収集をしていたとも言われています。

 そんな伊賀忍者は前述の様に黒田の悪党から始まったと僕は信じています。

後に天正伊賀の乱で織田軍率いる4万もの軍勢が押し寄せ、伊賀全土が焦土と化しましたが、最後の決戦は名張市赤目町の滝野城(柏原城)でした。

ハットリくんが有名なのは、徳川家康の家臣「服部半蔵」が伊賀者の協力の元、本能寺の変の危機で、堺にいた徳川家康を三河まで逃す際に、道の険しい加太峠を越え、伊賀を通って伊勢の港までの道のりで、ネックとなっていた伊賀の道案内をして、家康の命を救ったのがきっかけでした。

以来、家康は服部半蔵や伊賀者を重用し、江戸城には半蔵門と言う門を構え、伊賀同心として大切に扱いました。

 そんな服部さんは伊賀市出身と言われていますが、実際に動乱の天正の世で活躍した忍者とえば百地三太夫が有名でした。

 普段は山々に囲まれた隠れの地で京都や大阪の言葉を勉強し、また屋敷や城郭に忍び入る術を身につけ、火薬や薬の勉強をし、ゲリラ戦や奇襲を企て、大国に囲まれたこの地と人々を守って来たんじゃないかと想像しています。

現代の戦争も情報戦なら、昔の戦国の世も忍者を多用した情報戦が勝敗を左右していたと容易に想像できます。

ひょっとして本能寺の変の黒幕は伊賀名張の忍者?とも勝手な想像したり・・(梟の城の見過ぎ?)

兎にも角にも、忍者は伊賀市だけのものでなく、名張も猛アピール出来る事なんです。

「忍者の祖 観阿弥と世阿弥」とかね!

僕がリーフレットに書いた「名張市を隠市(なばりし)に!」って言うのもそう言った思いから来ています。

まぁ諸先輩方々からは「またけったいな事いいよるわ」と一蹴されそうですが(汗)

文中の黒田の悪党もいっちょかみした松明調進行事の様子をまとめた動画です。