「伊賀隠市」の名称について質問しました 

全国的に「名張市」と言う名前が浸透していない状況を踏まえ、市の名称・または愛称を「伊賀 隠市」にする案を、観光振興を旗印に改革をすすめる、北川市長にお尋ねしました。

私自身、旅 行や出張で他所に行った際に、タクシーの人に「何処から来た?」と尋ねられたら、名張と言っ てももう一度「名張ってどのあたり?」などと聞かれる事も多いので、言われる前に先に「伊賀 の方です」と言ってしまっています。

もともと伊賀と言う地名は上野より名張の方が関係が深い と言う歴史の流れを説明しつつ(下段にて詳細を説明)、伊賀隠市と言う名称を使った際のメ リットについても説明させて頂きました。

5年前に伊賀市は忍者市宣言をしました。

「伊賀と言 う言葉のみならず、忍者のイメージ」さえも我がモノにしようとしています。

忍者もどちらかと 言えば「名張発祥」「黒田発祥」だと思っています。

観光や物産の振興を掲げるなら「伊賀隠市」 と言う言葉はとても重要で、どう使うかで名張市の将来が変わると訴えました。

明治維新後、伊賀国は4郡に分かれ、伊賀郡役場は名張郡内にあった 

伊賀国の起源は飛鳥時代に定められた令制国(りょうせい こく)または、それ以前の伊賀国造(いがのくにのみやつ こ)から始まったとされています。

   その後、明治維新になり伊賀国は、名張郡・伊賀郡・阿 拝郡(あえぐん)・山田郡の4郡に分かれ、現在は名張市 内にある美旗や南古山や桔梗が丘の一部は伊賀郡の中にあ りました。また伊賀郡に役場はなく、名張郡の役場が伊賀郡の役場の役割を担っていました。

その流れから明治29年 に伊賀郡と名張郡が合併して「名賀郡」が発足し、その役 場が名張町に設置されました。(右図の番号が符られた範 囲が名賀郡)、同時期に阿拝郡と山田郡が合併して「阿山 郡」が発足。

この流れだけを捉えても、上野は阿拝郡・阿 山郡内にあり、伊賀郡とは無関係でした。伊賀郡内には、 忍者(昭和30年代以降の造語)のイメージの素となった 「服部半蔵」の出身地である「千賀地」がありますが、そ の地も上野と名張とではどちらが関係性が深いかというと当然「なばり」であります。 一般質問では先ずその説明からいたしました。 

忍者のもとは黒田の悪党、服部氏の祖もなばりの方が」関係が深い 

忍者の起源は平安時代に発生した黒田の 悪党からだと考えられます。

中央の権力 に屈せず、点在する土豪が結託して地域 を収める様になります。

鎌倉時代になる 少し前から大江氏が黒田荘内で力を持ちます。

上の図の服部氏の系図の一番左上の 「服部連時定」が服部の祖であると言われていますが、大正時代に発刊された 「名賀郡史」にて「服部六郎時定宅址、 薦原村大字薦生に在りと傳ふ」とされ、 「頼政嫡男仲綱の次男有綱、義経に組し 吉野山を落ちて此處に隠る、頼朝此國の勇士服部六郎時定に仰せて有綱を打たしむ」とあります。

また時定の三代後の「保行」は黒田の住人で「名張市史」にて「源平騒乱では源 氏方で服部氏の祖と言われる人物」とあります。

系図の一番右下の方の服部正就(半蔵)の位置 からしたら保行は十分に祖と言われる位置にあります。このように名張黒田で活躍した悪党が拡大し、伊賀・甲賀に広がったと考えます。

奈良飛鳥時代に発生した悪党が都に近く 隠れやすい「なばり」を拠点とし諜報や暗殺などをする様になりました。やがて都が京都 に移り、それに伴って活動の場が徐々に北上し、伊賀→阿拝→甲賀と広がって行ったと推 測しました。

   以上のように、伊賀郡の説明のあと、この悪党と服部氏について説明しました。 

伊賀隠市(いがなばりし)としての観光と物産の振興をはかりたい 

そして、現伊賀市は、「伊賀」という言葉も「忍者」も我が物の様にしていますが、前項の通り いずれも名張にこそ使う権利があるので、「伊 賀隠市(いがなばりし)を名乗り、今までブラ ンド力を高めて来た「伊賀牛・伊賀米」などの 「伊賀ブランド」を使い、観光や物産の強力な 一手として名張市の繁栄を目指してはどうかと 訴えました。

その後、市長から次のようなご答 弁頂きました。「小林議員からは昨年の9月に も同じような質問を受けました。(中略)・・ 伊賀と言うブランド力のある言葉の重要性は認識しており、また隠と言う文字も万葉集でも使われ、名張を表す言葉として広く市民にも 知られており、隠街道市など市民活動などにも使用されているおります・・云々」と昨年 9月の答弁よりも肯定的なご意見を頂けました。

名張市の発展、名張市の認知度向上に資 する「伊賀隠市」ですので、叶うまで折を見て訴え続けたいと思います。 

伊賀隠市としての観光振興!いがなばりしとして!