宮本氏はじめ赤目の有志方々のおかげで整備された柏原城跡を堪能!

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6月7日(土)朝から「あかめ里山文化保全会」会長の宮本篤氏の案内で柏原城ゆかりの滝野氏や赤目四十八滝渓谷保勝会の玖村氏夫妻その他合わせて18人で柏原城(滝野城)跡~竜神山コースを散策しました。

柏原城は言うまでもなく中世の砦としては見応えがあり、主郭を囲む堅固な土塁と多重に掘られた空堀など、保全会の皆様のおかげで綺麗に整備されて以前より見やすくなっていました。

特に土塁の北角は分厚くなっており「ここに物見櫓を建てたのでは?」と想像できる感じでした。

信長勢5万近くの軍勢で攻められたのに和睦に持ち込むほどの名張の忍者!凄いです!

天正伊賀の乱最後の決戦地である赤目柏原城址

柏原城は大阪冬の陣でいう「真田丸」!忍者の里は竜神山を本丸とした惣構え

下の写真は竜神山にある見晴らし台から旧町方面を望んだ場面です。

天正の乱の際は簗瀬村の小高い丘に丹羽長秀の陣、短野の山付近には松倉豊後守の陣が敷かれました。

竜神山からはまさにそれらを一望にできる場所だと登ってみて改めて実感しました。

天気が良ければ伊賀上野城の天守閣が見えるとの事で(当日は曇りだったので双眼鏡で何とか見えました。)約450年前の天正の乱の時代の澄んだ空気なら北から攻めてくる織田勢が綺麗に見えたことでしょう。

竜神山からそれらの景色を眺めていると滝川や宇陀川などを外堀にし、一ノ井の滝野氏城や柏原城に挟まれた狭間に、新川から檀の地域にまたがる台地とその手前の沼地など赤目の里全体が竜神山を中心とした惣構えだったのだと実感しました。(いつかの松鹿先生の資料で惣構えだと書いてありました)。

元々滝野氏は黒田から大屋戸付近で力のあった大江氏の末裔で、黒田の悪党であり、天下統一を目指した織田信長にとっては当時まだ征夷大将軍であった足利義昭と共に鞆の浦にて再起を計る北畠具親は絶対に捨て置けない敵であり、その北畠と関係の深い伊賀忍者はとても怖い勢力だったのだと思います。

義昭と具親がなぜ鞆の浦で再起を計ったのかも、鞆の浦を治める毛利氏は大江氏の末裔であり、名張の土豪や滝野氏との関係も深かったのでは?と推測できます。

そう考えると天正9年に第二次天正伊賀の乱で柏原城が落ちた翌年の天正10年に本能寺の変で信長が討たれた事も、その後秀吉が中国(毛利攻め)からすぐに引き返した事も、その舞台裏では名張の忍者が密かに活躍していたのかも知れません。

想像が膨らみ夜も寝にくいです。

竜神山から伊賀上野城方面を望む。信長軍が上野方面から攻めてくる様子が手に取るようにわかる眺望だ
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