10月31日、美旗市民センターで開かれた「美旗市民大学講座、第二次天正伊賀の乱と美旗の中世城館(講師:松鹿昭二先生)」を受講しました。
前項の柏原城は伊賀隠勢の最後の砦でしたが、美旗(特に下小波田)は織田方が築いた陣城で、当時の信雄の状況や城の形状から推測される城の役割に小波田の土豪の城の位置の説明 などとても興味深い内容でした。
伊賀勢から見る歴史と織田方から見る歴史。
伊乱記・多聞院 日誌・信長公記それぞれから見る歴史はそれぞ れ違い、ミステリアスだからこそ想像や考察が膨らみ魅力が増します。
後日11月7日には同講座の第二弾として松鹿先生と美旗の方たちと滝川城址と桜町中将城址の現地視察に行きました。
途中、松鹿先生が桜町中将城址の主郭を見学中に、私の名前を紹介してくださり私が先生に考察を申し述べた「足利義昭と名張ゆかりの北畠具親が、なぜ毛利氏の所領の鞆の浦に身を置いたか?
それは毛利氏が大江氏の末裔であり、具親とも親交のあった北畠家臣の下山甲斐守や、大江氏の末裔の滝野十郎吉政とも近いと言う関係性があった。
すなわち義昭と具親の鞆の浦で再起を伺う手助けも伊賀勢の働きがあったのでは?」と言う私の考察を先生も一部賛同してくださったと言 う事でとても嬉しかったです。
その考察が正しければ関ヶ原で毛利はなぜ3万もの兵を動 かさなかったか?
その謎も解けるような気がします。